LOGIN遼一は出前のアプリを閉じてから、もう一度冷蔵庫を開けた。沙耶が残していった食材はまだある。冷蔵庫の中身が突然消えたわけではないし、作り置きも少し残っている。夕食くらい、どうにでもなる。
そう考えたところで、下味のついた鶏肉が目に入った。透明な保存袋に入れられ、白いラベルに沙耶の字で『塩麹 焼くだけ』と書かれている。
焼くだけ。それなら自分にもできる。朝の目玉焼きは焦がしたが、肉を焼くことくらい難しくないはずだ。
遼一は袋を取り出してキッチンへ運び、フライパンをコンロに置いた。油を入れるべきなのか迷い、スマートフォンで「塩麹 鶏肉 焼き方」と検索する。すぐにいくつものレシピが出てきた。弱火から中火で焼き、蓋をする。塩麹は焦げやすいので注意、とある。
「朝よりは分かりやすいな」
独り言を口にしてから、自分で少し嫌になる。誰も聞いていない。
これまでなら沙耶がキッチンに立っていた。遼一が冷蔵庫を覗けば、「今日なら鶏肉あるよ」と何も聞かなくても言ってきたし、自分で焼こうとすれば「珍しい」と笑っただろう。
その記憶を追い出すように、遼一はフライパンへ肉を置いた。じゅっと音がして、香ばしい匂いが立つ。思ったより簡単だった。これくらいなら一人でもできる。
そう思った直後、肉の表面が急に黒くなった。
「おい」
慌てて火を弱める。塩麹は焦げやすいと、さっき読んだばかりなのに。
菜箸で裏返すと、片面はかなり濃い茶色になっていた。食べられないほどではない。たぶん。朝も同じことを考えた気がして、遼一は苦笑しながら皿へ移した。
ご飯は炊飯器に残っていなかったので、冷凍庫を探した。奥から小分けされた冷凍ご飯が出てくる。袋には日付まで書いてあった。それを電子レンジで温め、冷蔵庫からきんぴらも取り出す。
出来上がった食卓だけを見れば、いつもの夕食に近かった。違うのは、味噌汁がないことと、野菜が少ないこと。そして向かい側の席に誰もいないことだった。
遼一はテレビをつけた。ニュース番組の音が流れる。いつもなら食事中にテレビを見ることは少ない。沙耶が嫌がったわけではなく、二人で話すことが多かったからだ。
最近は仕事の話ばかりだった。
あるいは、本当にそうだったのか。沙耶が話していたのに、自分がスマートフォンを見ていただけではなかったか。
考え始めると面倒になり、遼一は箸を取った。鶏肉を一口食べる。少し焦げている。それでも中は柔らかく、塩麹の味が染みていて美味かった。
結局、この味を作ったのも沙耶だった。自分は焼いただけだ。
「焼くだけ、か」
ラベルの言葉を思い出す。
沙耶にとっては、その前に肉を買い、下処理し、味をつけ、食べる日を考えて冷蔵庫に入れておく工程があった。遼一がやったのは、その最後だけだった。
仕事なら、こんな状態を見て「自分が全部やった」などとは絶対に言わない。企画書なら、企画者がいて、資料を作る人間がいて、数字を確認する担当がいる。最終的に社長が承認したからといって、仕事全部が社長のものになるわけではない。
なのに家庭については、なぜ同じように考えたことがなかったのだろう。
遼一は箸を止めた。また沙耶のことを考えている。昨日までは、一日のうちこれほど頻繁に妻を意識してはいなかった。いるのが当たり前だったからだ。
食事を終え、皿を流しへ持っていく。そのまま置きかけて、遼一は止まった。朝、流しに置いたコーヒーカップがまだある。出勤前に使った皿も、そのままだ。
誰も洗っていない。当然だ。
「あとでやるか」
口にしてから、時計を見る。午後九時過ぎ。今日は疲れた。皿くらい明日の朝でもいい。
リビングへ戻り、ノートパソコンを開いた。会社から持ち帰った資料を確認する。来週の創業家懇親会、新商品発表会、取締役会。予定は詰まっている。
そこへスマートフォンが鳴った。
母、美佐江だった。
遼一は一瞬、出るのをためらった。沙耶が家を出たことを、まだ母には話していない。しかし出ないほうが面倒になる。
「もしもし」
『遼一? 今大丈夫?』
「何?」
『何じゃないわよ。来週の懇親会のことで確認したいことがあるの。沙耶さんに電話したんだけど、出ないから』
遼一の手が止まった。
「沙耶に?」
『そうよ。毎年、席順のことで事前に相談しているでしょう。今年は野村会長の奥様と叔母様を近くにしないほうがいいとか、細かいことを沙耶さんが覚えていてくれるから助かるのよ』
知らなかった。まただ。
遼一は眉間を押さえた。
「母さん、そういうことまで沙耶に頼んでたのか」
『頼んでいたという言い方は変でしょう。神崎家の嫁なんだから、沙耶さんも分かってやってくれていたのよ』
遼一はその言葉に、なぜか苛立ちを覚えた。
昨日までなら何も感じなかっただろう。沙耶は神崎家の嫁であり、親族関係を把握し、集まりに出席し、母の手伝いをする。当たり前だと思っていた。
けれど今、河野への贈り物すら自分が把握していなかったことを知ったばかりだ。母も同じように、沙耶がやっていることを「嫁だから」で片づけていたのかもしれない。
「今年は沙耶、出ないから」
電話の向こうが静かになった。
『……何ですって?』
「創業家懇親会。出席しない」
『どうして? 体調でも悪いの?』
「そうじゃない」
『じゃあ何なの。夫婦で出るものなのよ。あなた一人では格好がつかないでしょう』
その言葉に、遼一は無性に疲れた。自分自身が同じことを考えていたくせに、母から言われるとひどく身勝手に聞こえる。
「母さん」
『何?』
「俺たち、離婚する」
電話の向こうから声が消えた。
数秒後、美佐江が聞き返す。
『誰と誰が?』
「俺と沙耶」
『何を言っているの、あなた』
本気で理解できていないらしい。
「そのままの意味だよ」
『喧嘩でもしたの? だったら、そんな大げさな――』
「喧嘩じゃない」
『じゃあどうして離婚なんて話になるのよ』
遼一は黙った。
沙耶と約束した。母に説明するときは、不倫のこともきちんと話す。自分が原因であることを隠さない。
その約束をしたばかりだった。それでも、口に出すのは思った以上に難しい。親に不倫を告白する三十七歳の男など、格好のつけようもなかった。
「俺が、別の女性と付き合ってる」
電話の向こうが完全に静まった。
遼一は続ける。
「会社の社員。半年くらいになる」
『……あなた、何を言っているの?』
声が一段低くなった。
「聞こえただろ」
『聞こえたから聞いているのよ。沙耶さんがいるのに?』
「ああ」
『それで離婚するの?』
「俺から頼んだ」
次の瞬間、美佐江の声が鋭くなった。
『馬鹿じゃないの、あなた!』
遼一は思わずスマートフォンを耳から少し離した。母にここまで怒鳴られたのは何年ぶりだろう。
『何を考えているのよ。会社の社員? しかも半年? あなた、自分が何歳だと思っているの。社長なのよ。そんなことが会社に知られたらどうするつもりなの!』
「会社のことは――」
『会社だけの話じゃないでしょう! 沙耶さんに何て言ったのよ』
「だから、離婚してほしいって」
『それだけ?』
「葉山――相手の女性と生きたいとも言った」
電話の向こうで、美佐江が長く息を吐く音がした。
『……呆れた』
遼一は返す言葉がなかった。
『沙耶さんは?』
「離婚を受け入れた」
『そんなわけないでしょう』
即座に否定され、遼一の眉が動く。
「本人がそう言ったんだよ」
『そういう意味じゃないわよ。本当に平気だったと思っているの?』
「思ってない」
『なら、どうしてそんな言い方をするの』
遼一は少し苛立った。
「俺だって悪いと思ってるよ」
『悪いと思ってる人間が、どうして愛人を家に連れていくのよ』
「……誰に聞いた」
『今あなたが言ったことを繋げれば分かるでしょう。まさか違うの?』
違わない。
美佐江はしばらく黙ったあと、今度は少し落ち着いた声で尋ねた。
『沙耶さん、今どこにいるの』
「友達の家」
『あなたが追い出したの?』
「違う。俺が出るって言ったけど、沙耶が自分で出た」
『何を持っていったの?』
「服と本と、昔の仕事の資料。あと祖母さんの形見」
再び沈黙する。
『それだけ?』
「ああ」
『車は?』
「置いていった」
『宝石は?』
「それも置いてる。あとで弁護士を通して整理するって」
「弁護士」という言葉に、美佐江が反応した。
『弁護士?』
「沙耶が相談した」
『当たり前でしょう』
母から即答され、遼一は少し意外だった。
『まさかあなた、弁護士を入れるなんて大げさだ、とか言ってないでしょうね』
「……最初は言った」
『本当に馬鹿ね』
二度目だった。
遼一は腹を立てるより、返す言葉を失った。
『不倫した夫が会社社長で、妻は結婚後に仕事を辞めているのよ。専門家を入れずに何を決めるというの。沙耶さんが何も知らないと思って、都合のいい条件にするつもりだったわけ?』
「そんなつもりない」
『あなたにそのつもりがあるかどうかじゃないのよ』
沙耶と同じことを言われた。
遼一は黙った。
『それで、その女性とは本気なの?』
「ああ」
『結婚するつもり?』
「離婚が成立したら、そのつもりでいる」
『そう』
母の声が急に冷えた。
遼一は少し身構えた。美佐江は昔から感情的なところがある。反対されることは予想していた。
ところが続いた言葉は意外だった。
『なら、沙耶さんに戻ってこいとは言えないわね』
「……母さん?」
『あなたが別の女性を選んだんでしょう。だったら沙耶さんには、神崎家の都合で引き止める理由はないもの』
これまで沙耶に「神崎家の嫁」を求めてきた母の言葉とは思えなかった。
遼一が黙っていると、美佐江は続けた。
『ただし遼一。沙耶さんが七年間この家のためにやったことまで、離婚した途端なかったことにするのは許さないからね』
「分かってるよ」
『本当に?』
「何だよ」
『あなた、分かってる顔をして何も分かってないことが昔からあるでしょう』
遼一は思わず顔をしかめた。
「母親だからって何でも知ってるみたいに言うなよ」
『じゃあ聞くけど、私の通院の日、誰が毎回送ってくれた?』
「沙耶」
『あなたの叔父さんの還暦祝い、誰が店を押さえた?』
「それも沙耶だろ」
『去年、株主の奥様が亡くなったとき、香典だけじゃなくてご家族へ何を送るべきか調べてくれたのは?』
遼一は答えられなかった。知らなかった。
『知らないでしょう』
「……ああ」
『私もね、今あなたに偉そうなことを言える立場じゃないのよ』
美佐江の声が少し変わった。
『沙耶さんならやってくれると思っていた。お願いすれば嫌な顔をしなかったし、気も利くから、つい何でも頼んだ。私も甘えていたんでしょうね』
遼一は無言で聞いた。
『でも、あなたは私以上よ。沙耶さんがあなたのためにやっていたこと、一体どこまで知ってるの?』
今日、同じことを考えたばかりだった。河野の記念日、会社関係の贈答、親族の付き合い、家事、食事。沙耶が自分に見せずに処理していたもの。
遼一は答えなかった。
美佐江が小さくため息をつく。
『来週の懇親会は、私が何とかするわ』
「悪い」
『今まで沙耶さんにやらせてたことを、今度は私がやるだけよ』
その言葉は、遼一の胸に重く残った。
『それから、沙耶さんには私から連絡しない』
「どうして?」
『今、神崎家の人間から何を言われても負担でしょう。謝るにしても、私が自分の気持ちを軽くするために電話するみたいになるもの』
遼一は驚いた。
母がそんなことを考えるとは思っていなかった。いや、もしかすると沙耶が長年うまく間に入っていたせいで、自分は母のこういう部分さえ知らなかったのかもしれない。
『ただ、離婚条件で変なことをしたら私が怒るから』
「しないって」
『ならいい。相手の女性にも、自分が何をしたのかきちんと分からせなさい』
「莉奈だけが悪いわけじゃない」
『そんなこと分かってるわよ。一番悪いのは、既婚者のくせに浮気したあなた』
遼一は額を押さえた。
「分かったから」
『本当に分かってるのかしら』
「もう切るぞ」
『逃げるところまでお父さんそっくりね』
「親父を巻き込むなよ」
母は最後に大きくため息をつき、『また連絡するわ』と言って電話を切った。
遼一はしばらくスマートフォンを持ったまま動かなかった。疲れた。会社の会議を三本続けるより疲れた気がする。
テーブルを見ると、食べ終わった皿がそのまま残っている。流しには朝からの食器もある。
遼一は立ち上がった。
「……洗うか」
蛇口をひねり、洗剤をスポンジにつける。皿を洗うくらい、もちろんできる。一枚、二枚と片づけていくうちは問題なかった。
ところがフライパンの焦げが落ちない。
スポンジでこすっても黒い部分が残り、力を入れても変わらない。金属たわしを使うべきかと思って棚を探すが、見つからなかった。
どこに何があるのか分からない。
七年も暮らしている家なのに。
結局、スマートフォンで焦げ落としの方法まで検索することになった。重曹が使えるらしい。
家にあるのか。
収納棚を探し、調味料や掃除用品をいくつも取り出した末、ようやく奥から白い容器を見つけた。そこには、また沙耶の字で『キッチン用』と書かれている。
「どこまで出てくるんだよ」
笑うつもりで言ったのに、声は思ったより乾いていた。
翌朝は、前日より十五分早く目覚ましを設定した。今度は一度で起きた。昨日の失敗を繰り返すつもりはない。
パンも帰宅途中に買ってある。朝食を用意し、コーヒーも淹れた。
「何だ。できるじゃないか」
一人で納得する。
その日は予定どおり会社へ着いた。昨日より早い。遼一は少し気分がよかった。
結局、慣れればいいのだ。
沙耶がいなくても、人間一人が暮らす程度なら難しいことではない。自分は会社を経営している。家事の手順くらい覚えられないはずがない。
社長室へ入ると、飯田がいつもどおり今日の予定を読み上げた。
「十時から商品戦略会議、十一時三十分から雑誌取材、十四時から開発部とのレビューです。それから、十五時にクリーニング会社からご自宅へ集荷に伺うとの連絡が入っております」
遼一は顔を上げた。
「クリーニング?」
「はい。奥様から定期集荷のご登録をいただいていたようで、確認のお電話がこちらへ転送されました」
昨日、着られるシャツを探して苦労したことを思い出す。
「ああ……家に誰もいない」
「では変更なさいますか?」
「頼む」
「今後の集荷先についても確認したいとのことです」
遼一は少し考えた。
「会社にできる?」
「おそらく可能かと」
「じゃあ会社で」
飯田がメモを取る。
それだけのことだった。
その直後、今度は経理部から内線が入り、自宅宛ての定期購入品の請求について確認を求められた。さらに昼にはマンションの管理会社から、宅配ボックスに長期間入ったままになっている荷物があると連絡が来た。
遼一は苛立ちながら、一つずつ処理した。
どれも大した問題ではない。電話一本、設定変更一つ、自分でやれば済む。
なのに、なぜこんなにも次々出てくるのか。
夕方、飯田が書類を持ってきた。
遼一は署名しながら、ふと思いついて尋ねる。
「飯田」
「はい」
「こういう家庭関係の連絡、今までも会社に来てたか?」
飯田は少し考えた。
「ほとんどございませんでした」
「どうして」
「奥様がご対応されていたからではないでしょうか」
またその答えだった。
遼一はペンを置いた。
「そうか」
飯田はそれ以上何も言わず退出した。
遼一は椅子に座ったまま、窓の外を見た。
妻がいなくても暮らせる。確かに暮らせる。食事は買えるし、シャツはクリーニングに出せる。掃除も頼める。贈り物は外商に選ばせればいいし、母との連絡も自分で取ればいい。
金を払えば、大抵のことは解決できる。
だから、沙耶がいなくても困らない。
そう思おうとした。
だが、ふと別の疑問が浮かんだ。
もし全部を金で代わりに頼めるのなら、七年間、沙耶は一体どれだけのことを無償でやってきたのだろう。
その問いに答えが出る前に、スマートフォンが震えた。
莉奈からだった。
『今日、会える? ちゃんとこれからの話がしたい』
遼一はメッセージを見つめる。
沙耶との生活を終わらせたのは、この先に莉奈との新しい生活があると思ったからだ。いつまでも過去を気にしていても仕方がない。
遼一は返信した。
『今夜、うちに来る?』
送信して数秒で返事が来る。
『行きたい』
遼一は画面を閉じた。
今度こそ、新しい生活を始めればいい。そうすれば、この家に残った沙耶の気配も、そのうち消える。
そのとき遼一は、まだ知らなかった。
沙耶のいない家へ莉奈を迎え入れたことで、自分が求めていた「新しい生活」が、想像していたものとはまるで違う姿を見せ始めることを。
第25話 妻に頼らず仕事を回すために、会社を変えなければならなかった翌朝、遼一が出社すると、昨夜自分で追加した一枚の資料が机の上に残っていた。『この商品を、誰のどんな時間に置くのか』見出しだけなら、以前沙耶が作っていた資料とよく似ている。だが、中身はまだ半分しか埋まっていなかった。三十五歳から五十歳を中心とする既存顧客。仕事を終えて帰宅した夜。休日の朝。来客前。自分のために部屋を整えたいとき。贈答用なら、親しい相手の新居祝いや誕生日。いくつか書いてみたものの、どれもどこか商品企画書らしい言葉で、生活の匂いが薄い。遼一は椅子へ腰を下ろし、しばらくその一枚を見つめた。沙耶へ聞けば早い。その考えは昨夜すでに捨てた。ならば会社で作るしかない。問題は、誰に作らせるかではない。どうすれば今後も会社の中で考えられるようになるかだった。午前九時、遼一は秘書へ内線を入れた。「長谷川部長と商品企画の高田課長、それから営業から一人、EC担当から一人。十時に小会議室を押さえてくれ」『広告代理店も呼びますか?』「今日はいい。社内だけでやる」『承知しました』通話を切り、遼一は資料を閉じた。以前なら、各部署から上がってきた情報を自分がまとめ、最後に沙耶へ見せる。それで十分だと思っていた。会社の中で作れない部分を、家庭で補っていたのだ。しかも無料で。その状態を「自分は仕事ができる」と思っていた。認めたくないが、そこはもう認めるしかない。十時。小会議室に集まったのは、マーケティング部長の長谷川、商品企画課長の高田、法人営業の女性課長・野村、EC担当の三十代男性・石井だった。全員、急な招集に少し戸惑っている。遼一は昨夜作った一枚を配った。「今日は広告案を決める会議じゃない」長谷川が資料を見る。「これは?」「新
第24話 元妻がいなくなって初めて、会社の会議が噛み合わなくなった神崎ライフスタイルの新商品発表会まで、残り三週間。午前九時から始まった広告戦略会議は、一時間二十分を過ぎても結論が出ていなかった。遼一は会議室の正面で腕時計を確認し、目の前の資料をもう一度めくった。新商品は、ホテル客室や一般家庭向けに展開する高価格帯のルームフレグランスシリーズだった。香りそのものは悪くない。開発には一年近くかけている。容器のデザインにも金をかけた。大手百貨店二社との商談も進み、自社ECだけでなくホテルのアメニティ展開も視野に入れている。会社としては、今期後半の柱にしたい商品だった。だからこそ、広告で失敗するわけにはいかない。「もう一度整理しましょう」遼一が言うと、広告代理店の担当者がパソコンを操作した。大型モニターへ、三種類のキービジュアルが映る。一つ目は、若い女性モデルを全面に出した華やかな案。二つ目は、白を基調に商品だけを見せる高級感重視の案。三つ目は、ホテルの客室を背景にしたライフスタイル提案型。どれも悪くない。だが、どれも決め手がない。「葉山さんは一案目を推すんですよね」マーケティング部長の長谷川が確認すると、莉奈が頷いた。「はい。SNS広告まで考えるなら、一番止まってもらいやすいです。商品だけの静物だと、高級感は出ても拡散は弱いと思います」「でも既存顧客は四十代以上が中心だ」営業本部長が言う。「若い女性へ振りすぎると、今までのブランドイメージから浮かないか?」「だから今回は新規層を取りにいくんじゃないんですか?」莉奈はすぐに返した。「既存顧客だけ見ていたら市場は広がりません。二十代後半から三十代前半の女性を取るなら、今までと同じ見せ方では駄目だと思います」言っていることは間違っていない。遼一も、当初はその方向を支持していた。しか
第23話 私の企画が、七年ぶりに採用されたホテル・アステリアの改善案を正式に提出する日の朝、沙耶は目覚ましが鳴る十分前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。むしろ前夜は珍しく早めに布団へ入った。それでも体のどこかが今日を意識していたらしく、目を開けた瞬間から頭の中に資料の構成が浮かんだ。由香の家へ来てから何度も使ったダイニングテーブルには、昨夜のうちにまとめておいた書類が置いてある。最終案は二十八ページ。最初に考えていたより、ずっと地味な内容になった。大規模改装はしない。若者向けへ一気にブランド転換もしない。新しいレストランを作るわけでも、有名人を呼ぶわけでもない。まず、今いる客を取りこぼさない。宴会、宿泊、レストランを別々のサービスとして売るのではなく、客がホテルを使う目的ごとに案内をつなぐ。法事。同窓会。家族の節目。親を連れた食事。地域へ戻ってきた人が、複数の用事を一か所で済ませられるようにする。そのうえで、現在の常連客から次の世代へ利用をつなげる。派手ではない。しかし今の沙耶には、それが一番アステリアに合っていると思えた。キッチンへ行くと、由香がすでにコーヒーを淹れていた。「おはよう。顔、固いよ」「そんなに?」「面接受けに行ったときより固い」沙耶は冷蔵庫からヨーグルトを出した。「今日は自分で考えたものを採るかどうか決められるから」「面接だって自分を採るか決められてたじゃん」「それとは違うよ」「何が?」沙耶は少し考えた。「面接のときは、私自身が評価されてる感じが強かった。でも今日は、私が考えたものが使えるかどうかを見られるでしょう。だから……」「自分と仕事を分けられる?」由香に先を言われた。沙耶は少し驚いて
第22話 「やっと仕事に戻ったんですね」久世蒼士へ渡す修正版の資料を仕上げたのは、日付が変わる少し前だった。沙耶は最後のページまで見直し、ファイル名をつけて保存した。『ホテル・アステリア現状分析_改訂版』いったん送信画面まで進み、そこで手を止める。今回は相川を通して久世ホールディングスへ送ることになっている。直接蒼士へ連絡するわけではない。それなのに、提出ボタンを押すだけで妙に緊張した。会議の最後に言われた言葉が残っている。――自分で出した結果まで、先回りして小さくする必要はないでしょう。資料を直すとき、その指摘を何度も思い出した。十一室の宿泊予約についても、以前なら「一件のみであり偶然の可能性も高い」と冒頭から予防線を張っていただろう。今回は違う。『試験運用一件目では、宴会付随の宿泊見込みが五室程度から十一室へ増加した。案内経路を整理したことで既存需要を取りこぼしにくくなる可能性が示された。ただし、現時点では一例のため継続検証が必要である』結果は結果として書く。そのうえで限界も書く。誇張もしない。縮めもしない。たったそれだけのことが、沙耶には思った以上に難しかった。「まだ送ってないの?」ソファでテレビを見ていた由香が、画面から目を離さずに言った。「今送る」「十五分前も聞いた」「最終確認してたの」「十二回目?」「今日は八回くらい」「改善したねえ」完全にからかわれている。沙耶は苦笑して送信した。「送った」「お疲れ」「……うん」「何、その顔。公開告白でもした?」「仕事の資料送っただけ」「じゃあ寝な」「そうする」そう言いながら、沙耶はすぐにはパソコンを閉じなかった。送った以上、もう自分の手から離れた。
第21話 七年ぶりに戻った業界で、私は彼と出会った久世ホールディングスとの打ち合わせを二日後に控えた夜、沙耶は資料の一ページ目を十二回目まで直していた。由香のダイニングテーブルにはノートパソコンとホテル・アステリアの資料が広がり、いつの間にか仕事用の場所として定着しつつある。最初は遠慮して毎晩片づけていたが、由香から「朝また全部出すなら端に寄せとけば」と言われて以来、食事のときだけ資料を重ねて椅子の横へ置くようになった。画面に表示されている一文は、前回から変わっていない。『ホテル・アステリアの問題は、魅力がないことではない。すでにある価値が、客の目的に沿ってつながっていないことである。』問題は、その次だった。十一室の宿泊予約が入った。宴会と宿泊の情報共有を変えたことで、少なくとも一件は取りこぼしを減らせた。レストラン利用者への聞き取りでは、若い世代がアステリアを嫌っているというより、「自分が使う場所として思いつかない」という反応が多かった。そこから、『設備別の販売から、利用目的別の提案へ』という方向性までは見えている。だが、それだけでホテルが立て直るとは言えない。「また消した」キッチンから由香の声が飛んできた。沙耶は驚いて振り返った。「見てたの?」「さっきからキーボードの音が、打つ、止まる、消す、打つ、止まる、消す、なの。聞いてるだけで分かる」「怖いな」「何に悩んでるの?」由香はマグカップを二つ持ってきて、一つを沙耶の横へ置いた。中身はコーヒーではなく、温かいほうじ茶だった。「ありがとう」「どういたしまして。それで?」沙耶は画面を見ながら答えた。「明後日の打ち合わせ、相手が大手だから」「久世なんとか?」「久世ホールディングス。ホテルだけじゃなくて、不動産もレストランもやってる。昔から業界では有名だった」「偉い人が来るんだ
第20話 ホテルが売っていたものを、お客様は欲しがっていなかった十一室の宿泊予約が入った翌日、沙耶は嬉しさをいったん脇へ置くことにした。数字が動いたのは事実だった。しかし、一件うまくいっただけで「改善策は成功です」と言ってしまえば、それまで何度も新しい施策に振り回されてきたアステリアの現場と同じことを繰り返す。なぜ十一室増えたのか。本当に共有方法を変えたことが理由なのか。もともと宿泊する予定だった人が、たまたまアステリアを選んだだけではないのか。確かめなければならなかった。午前中、沙耶は森川から同窓会幹事とのやり取りを見せてもらった。もちろん個人情報に触れない範囲だが、宿泊案内を送ったあとの反応は分かる。「最初は五室くらいって話だったんですよね?」沙耶が尋ねると、森川は頷いた。「幹事さんが把握してたのが五室です。でも案内を参加者全員に回してくれて、それを見た人から個別に連絡が来ました」「何が決め手だったか聞きました?」「二人だけですけど。片方は『宴会終わってそのまま部屋に上がれるなら楽だから』って。もう一人は『朝みんなで食べられるならこっちでいい』って」「料金は?」「安いとは言ってなかったです。駅前より少し高いですし」それは沙耶にとって重要だった。安くしたから取れた十一室ではない。利便性が伝わったから選ばれた可能性がある。「宴会会場と宿泊場所が同じこと自体に価値があるんですね」「まあ、飲む人には大きいでしょうね。駅前まで移動しなくて済むし」「でも、それって今まで積極的に案内してなかった?」森川が苦笑した。「聞かれたら答えてました」「聞かれたら」「はい」客が知らなければ、存在しないのと同じだった。沙耶はノートへ書き込む。『利便性はある。伝えていない。』それだけなら広告の問題にも見える。だが、







